躍動!【二刀流】大谷翔平の向こうに【伝説の本塁打王】ベーブ・ルースを見る

Pocket

こんにちは、松鷹守です。

メジャーリーグベースボール(MLB)、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手が、2018年の今年、ついにメジャーデビューを果たしました。投手と打者の「二刀流」で、開幕から大きな話題を集めています。

米国時間の2018年6月7日終了時点で

【投手として】 4勝1敗0セーブ、防御率3.10

【打者として】 打率2割8分9厘、本塁打6本、打点20

というなかなかの成績です。

特に4~5月は3試合連続ホームランを放ったり、163km/hの豪速球を投げたり、たぐいまれな才能を随所で発揮してくれました。

5月途中までは打率3割台をキープ。このままだと「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」も達成できそう……とワクワクしていたら、大きな落とし穴が待っていました。

現地6月6日のロイヤルズ戦にピッチャーとして先発したものの、指のマメにより4回で降板。その2日後、右肘靭帯損傷で故障者リストに載ってしまったのです。

大谷は7日に患部の回復を促す多血小板血漿(PRP)注射を受け、3週間後に再検査を受ける予定。その結果次第では最悪、トミー・ジョン手術(靭帯再建手術)の可能性もあるとか。

手術を受けた場合、復帰までには1年以上かかってしまいます。

われわれ野球ファンは、大谷選手がケガをするまで、あのベーブ・ルースが1918年に記録した「投手で13勝、打者で11本塁打」を100年ぶりに抜くかもしれない、と半ば本気で期待していました。

シーズン終盤、きっと全米が大騒ぎになるだろうと。あのイチローが、2004年にジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録257安打を84年ぶりに塗り替えたときみたいな熱狂が見られるかもしれないと。

ルースは奇しくも、当時23歳。大谷も今23歳。「ぴったり100年ぶり」「同じ23歳」というわけです。(大谷選手、7月5日で24歳になりますが。)

ちょっと出来すぎのシチュエーションです。こんな絶妙の巡りあわせを用意するなんて、野球の神様、どれだけ大谷くんのことを愛しているの……と思ったものですが、彼がこのビッグチャンスをモノにする可能性は、限りなく低くなってしまいました。

さて、今日のテーマは大谷選手が追いつき・追い越すかもしれない伝説のメジャーリーガー、ベーブ・ルースのこと。

野球ファンなら誰でも彼のことを知っていますが、今あらためてその人物像に迫ってみたいと思います。

■少年時代、矯正学校、マシアス神父、野球

ベーブ・ルース、本名「 ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア 」( George  Herman  Ruth,  Jr. )。1895年2月6日、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア生まれ。(日本はこのとき明治28年)。

両親は酒場を経営。兄弟姉妹はルースを入れて9人。母は病弱で、ルースが15歳のときに他界。父は毎日店の仕事で忙しく、ルースとは疎遠だったようです。その父は1918年、酒場での喧嘩に巻き込まれて亡くなります。

ルースは非行少年だったため、7歳のとき〈セント・メアリー少年工業学校〉という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られました。そこでカトリック神父のブラザー・マシアス・バウトラーに「野球」を教わったことが、彼の人生を大きく変えていきます。

ちなみに、マシアス神父からは「洋服の仕立て」も習いました。セント・メアリーは職業訓練も行っていたからです。ルースはミシンの腕前もよく、プロの野球選手になってからも、自分やチームメイトのユニフォームの修繕をしたとか。もし野球との出会いがなかったら、やがて〈天下一の仕立屋、ベーブ・ルース〉……が誕生したかも(!?)

マシアス神父は多くの少年たちから慕われていました。ルースもそのひとり。特に彼の場合、実の父親とは距離があっただけに、ときに厳しく、ときに優しく導いてくれる神父のことを「本当の父」のように感じていたのではないでしょうか。

ルースは初め強肩のキャッチャーでしたが、ある日試合でピッチャーをやったところ好投、その後エースとして活躍します。これがボルチモア・オリオールズ(※現在のオリオールズとは別のマイナー球団)のオーナー兼監督、ジャック・ダンの目に留まり、契約。プロ入りを果たします。

1914年2月、ルース19歳のときでした。

■レッドソックス時代(1914~19年)、愛称「ベーブ」、二刀流

7歳から矯正学校で育ち、世間知らずで子供っぽいところのあったルース。そんな彼を、オリオールズの選手たちはからかいの意味をこめて「ダンが連れてきた赤ちゃん(ベイビー=babe)」と呼ぶようになります。

「ベーブ」のニックネームは、ここから始まったんですね。

新人ながら、ルースはすぐに投打の二刀流で活躍します。しかしチームの経営は思わしくなく、1914年7月、彼はメジャー球団のボストン・レッドソックスにトレードされます。

メジャーデビュー戦はピッチャーで初登板初勝利。この年は5試合に出場し、うち4試合は投手としてマウンドに上がりました。

レッドソックスには1919年まで6シーズン在籍します。成績は次のとおり。


〈1914年〉

登板数   4  【勝利】 2勝  【敗戦】 1敗  【防御率】3.91

打席数  10  【打率】.200 【本塁打】 0本 【打点】 2


〈1915年〉

登板数  32  【勝利18勝  【敗戦】 8敗  【防御率】2.44

打席数 103  打率】.315 【本塁打】 4本 【打点】21


〈1916年〉

登板数  44  【勝利23勝  【敗戦】12敗  【防御率】1.75

打席数 150  打率】.272 【本塁打】 3本 【打点】15


〈1917年〉

登板数  41  【勝利24勝  【敗戦】13敗  【防御率】2.01

打席数 142  打率】.325 【本塁打】 2本 【打点】12


〈1918年〉

登板数  20  【勝利13勝  【敗戦】 7敗  【防御率】2.22

打席数 380  打率】.300 【本塁打】11本 【打点】66


〈1919年〉

登板数  17  【勝利】 9勝  【敗戦】 5敗  【防御率】2.97

打席数 542  打率】.322 【本塁打】29本 【打点】114


ピンクの数字は「2ケタ勝利」「2ケタ本塁打」。これを見ると、1917年までは投手メイン、1018年は投手・打者半々ずつ、1919年は打者メインだったのがわかります。

同一シーズンで「2ケタ勝利」「2ケタ本塁打」をマークしたのは1918年のみ。大谷翔平が「達成なるか!?」と言われているのは、この記録です。

でも翌1919年はピッチャーで9勝ですよ。もしあとひとつ勝っていたら、同一シーズン「10勝、29本」になっていたわけで、いくら大谷くんでも10勝はともかく、29本はまあ……無理だよなあ。

■ヤンキース時代(1920~34年)、打者として、あまたの伝説

1919年オフ、資金難に陥っていたレッドソックスは、ルースを金銭トレードでニューヨーク・ヤンキースに放出します。

ヤンキースには1920~1934年の15年間在籍。その1年目から野手に専念したルースは、バッターとして驚異的な数字を残していくのです。


1920年 打率】.376 【本塁打】54本 【打点】137

ホームラン54本は、とてつもない記録でした。前年に自身が放った29本でさえ異常な多さと言われていたのに、その倍近くも打ったのですから。

ちなみに1920年の本塁打数2位は、ジョージ・シスラー(セントルイス・ブラウンズ)の19本。また、ルースより多い本塁打を記録したチームはフィラデルフィア・フィリーズ(64本)の1球団だけでした。


1921年 打率】.378 【本塁打】59本 【打点】171

翌年、さらに記録を伸ばしたルース。7月にはデトロイトで、生涯で一番といわれる175メートルの特大場外ホームランをかっ飛ばしています。

ヤンキースはチーム初のワールドシリーズに進出。でも残念ながら、シリーズではニューヨーク・ジャイアンツの前に敗退という結果でした。


1922年 打率】.315 【本塁打】35本 【打点】99


1923年 打率】.393 【本塁打】41本 【打点】131

この年、チームはヤンキー・スタジアムに本拠地を移します。当時最先端の技術で建設された3階建て・5万8千人収容の大きな球場で、「ルースが建てた家」と呼ばれました。

たしかに、ヤンキースの記録をひもとくと、1919年まで観客動員数はシーズン約62万人が最高だったのに、ルースが加入した1920年から毎年、100万人を突破しています。スタンドに飛び込む彼のどでかいアーチが、多くのファンを魅了したんですね。

ヤンキー・スタジアムの記念すべき第1号本塁打を放ったのは、もちろんルースでした。


1924年 打率】.378 【本塁打】46本 【打点】121

ルースは本塁打王と首位打者を獲得(※首位打者はこの年が唯一)。打点は8点差の2位で、〃ほとんど3冠王〃級の活躍でした。


1925年 打率】.290 【本塁打】25本 【打点】66

打率は3割に届かず、ホームランも低迷。暴飲暴食を繰り返すだらしない生活、高熱や腹痛などの体調不良もあり、散々なシーズンでした。

(※ヤンキースで過ごした15年間中、打率が3割を切ったのは、最終年の1934年とこの年だけ。)


1926年 打率】.372 【本塁打】47本 【打点】150

この年、ルースは前年の不調から見事に復活。ヤンキースはリーグ優勝し、ワールドシリーズに進出するも、セントルイス・カージナルスに3勝4敗で負けてしまいます。

このシリーズ中の逸話に、あの有名な「約束のホームラン」があります。

【重い病気で入院していたジョニー・シルベスターという11歳の少年をルースが見舞い、「明日の試合でホームランを打つよ」と約束。翌日のゲームで見事にホームランを放ち、これを聞いたジョニーはたいそう勇気づけられ、病状が劇的に回復する】というお話です。

この心温まるエピソード、伝記や映画などでよく知られていますが、事実は少し違うようです。

実際は、ジョニーの父親が息子を励ますため球団に電話して頼んだところ、ヤンキースとカージナルスの選手らのサイン入りボールが届き、「水曜日(シリーズ第4戦)に君のためにホームランを打ちます」というルースのメモが添えられていたんだとか。

約束どおり、第4戦でルースが白球をスタンドに叩き込んだのは本当です。彼はジョニーを見舞いますが、それはワールドシリーズの終了後でした。


1927年 打率】.356 【本塁打】60本 【打点】164

1921~28年はヤンキースの「第1期黄金時代」とされ、アメリカン・リーグで6回優勝、ワールドシリーズで3回優勝します。

とりわけ1927年は恐ろしいほどの強さで、リーグ記録となる110勝を達成(※当時は154試合制)。打撃陣は「殺人打線」と呼ばれ、チームは「史上最強」と形容されました。

ワールドシリーズでは、ピッツバーク・パイレーツを4勝0敗で退けます。

ルースはシーズンで自己ベストの60本塁打を記録。これは34年後の1961年、同じヤンキースのロジャー・マリスが61号を放って破るまで34年ものあいだ、年間最多本塁打記録でした。


1928年 打率】.323 【本塁打】54本 【打点】142

ヤンキースはフィラデルフィア・アスレチックスとシーズン終盤まで首位を争った末、何とかリーグ優勝します。ルースは後半ペースを落とすものの、ホームラン50本超えを達成。

チームはワールドシリーズで、セントルイス・カージナルスに4勝0敗して優勝。2年連続、無敗でのワールドシリーズ制覇です。


1929年 打率】.345 【本塁打】46本 【打点】154

ヤンキースはこの年、初めて「背番号制」を採用。当時は打順をそのまま背番号にしていたため、3番打者のルースが背番号「3」、4番打者のルー・ゲーリッグが「4」となりました。


1930年 打率】.359 【本塁打】49本 【打点】153

1931年 打率】.373 【本塁打】46本 【打点】163

1932年 打率】.341 【本塁打】41本 【打点】137


1933年 打率】.301 【本塁打】34本 【打点】103

38歳となったルース。打率3割を打ちますが、ホームランは30本台に減少。体力の衰えは否めません。

ちなみに、MLBはこの1933年に、初めてのオールスターゲームをシカゴで開催。記念すべきオールスター第1号本塁打を放ったのは、やはり我らのベーブ・ルースでした。


1934年 打率】.288 【本塁打】22本 【打点】84

ヤンキースでプレーした最後の年。個人成績は平凡なものでしたが、2年連続でオールスターゲームに出場しています。

この年の11月、ルースはメジャーリーグ選抜チームの一員として日本にやって来ます。当時は飛行機による移動が一般的ではなく、船による長旅でした。

日本にはまだプロ野球がない時代です(※「日本職業野球連盟」が発足し、初のリーグ戦が開催されたのは、2年後の1936年)。ルース、ゲーリッグ、ジミー・フォックス(フィラデルフィア・アスレチックス)のホームラントリオ、剛速球投手レフティ・ゴメス(ヤンキース)らスター選手の姿に、国内の野球ファンはどれほど熱狂したことでしょうか。

対戦結果はMLBチームの16勝0敗。当然の結果ですが、静岡県の草薙球場で行われた試合では、伝説のピッチャー・沢村栄治が「8回5安打1失点9奪三振」の快投を演じました。三振はルース、ゲーリッグたちから4者連続で奪うという場面も。1失点はゲーリッグのソロホームランのみでした。惜しい!

ベーブ・ルース、沢村栄治という日米の伝説が、このとき激突したんですね。

■ブレーブス時代(1935年)、現役引退

1935年 打率】.181 【本塁打】6本 【打点】12

プレーヤーとしての晩年、ルースはヤンキースの監督になることを望んでいました。しかしオーナーは、まずマイナーで監督経験を積むよう求めたため、決裂。ルースはボストン・ブレーブス(※現在のアトランタ・ブレーブス)に移籍し、1935年シーズンを迎えます。

ルース40歳。打撃の方はまずまずでしたが、守備や走塁での動きがあまりにも鈍く、野球選手としてはもう限界でした。

そして6月1日、ついに引退します。

この年は、出場わずか28試合。「本塁打6本」はあまりにも寂しい数字ですが、5月25日にはピッツバーグで1試合3ホーマーを放っています。うち3本目はど派手な場外アーチで、これが現役最後のホームランとなりました。

引退間近でのこの打棒。どうだと言わんばかりの暴れっぷり。さすがは千両役者、目頭が熱くなりますね。

■通算成績、引退後

ルースはメジャーリーグで22年間プレーしました。主な通算成績は次のとおり。

【投手として】 94勝46敗  防御率2.28

最優秀防御率 1回

【打者として】 打率.342  本塁打 714  打点 2217

本塁打王 12回  打点王 6回  首位打者 1回

打撃成績だけでも偉大なのに、ピッチャーで94勝もしているんですね。あと少しで100勝ですよ。何ですかこの身体能力。スタミナとパワー。もしプロ1年目からバッターに専念していたら、ホームラン記録はどこまで伸びたでしょうか?

さてルース、引退翌年の1936年、「アメリカ野球殿堂」初の殿堂入り5選手のうちの1人に選ばれます(※他の4人はタイ・カッブ、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソン、ウォルター・ジョンソン)。

また1938年はブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)のコーチを務めました。

指導者経験はこの1シーズンのみ。メジャー球団の監督をという希望はついにかないませんでした。現役時代の華々しい実績、圧倒的な人気からすれば、「それはないんじゃないの」という気がします。

特にヤンキース。前述のように、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」と呼ばれたくらいですから、チームへの貢献は計り知れないほどあったはず。「現役生活お疲れさま。次は監督として黄金時代を築いてくれたまえ」という言葉がどうして出なかったのか、正直腑に落ちません。

だって日本のプロ野球で言うと、読売ジャイアンツ長嶋茂雄王貞治は引退後、当然のように監督をやりましたからね。

ONはただのスターじゃなくてスーパースター。ベーブ・ルースだってスーパースターじゃないですか!

(まあ、アメリカという国はそれほどビジネスライクなのかもしれません。でも、ヤンキースの監督をやりたかったルースの気持ちを思うと、切ないです。)

■晩年、病魔との闘い

ルースは1946年頃から目の痛みや激しい頭痛などに襲われます。病院で検査を受けると、悪性の腫瘍が見つかりました(のちにそれは、鼻と口にできる「鼻咽頭癌」であることが判明)。放射線治療や投薬を受けますが、体重は30キロ以上も落ちてしまいます。

1947年4月27日、ヤンキースはヤンキー・スタジアムで「ベーブ・ルース・デー」を開催。6万人の観衆の前で、ルースは心のこもったスピーチをします。

1948年6月13日、ヤンキー・スタジアム25周年記念イベントがあり、かつてのチームメイトらとともにルースも参加。このイベントで、ヤンキース時代の背番号「3」が永久欠番に決まりました。

癌に冒されたルースの体はひどく衰弱し、痛々しいほどやせ細っていました。帽子を取り、バットを杖がわりにしてスタジアムに立つ、ピンストライプのユニフォームを着たルースの後ろ姿。背中には栄光の背番号3。

このとき撮られた1枚は、「野球史に残る有名な写真」となりました。カメラマンはピューリッツァー賞を受賞しています。

それから約2ヵ月後の1948年8月16日、ルースは53歳でこの世を去りました。

53歳……早すぎます。まさに「太く短い人生」だったんですね。

ルースは、ニューヨーク州ホーソーンにあるゲート・オブ・ヘブン墓地に埋葬されました。彼の墓には今も多くの人が訪れ、献花が絶えないといいます。


それにしても大谷選手、肘の具合が心配です。こうなったら時間をかけてしっかり治し、来年でも再来年でもいいから、ルースの「投手で13勝、打者で11本塁打」を更新してほしいものです。

いや、記録はもういいことにしましょう。それよりケガをせず、本場アメリカで二刀流をのびのびやってくれればと思います。彼が楽しげにボールを投げ、バットを振る姿を見るだけで、私たち野球ファンは充分幸せな気持ちになれるのですから。

以上、松鷹守でした。

〈ゆるやかな惑星〉でまたお会いしましょう!

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする